C.O.
読んだ本とか観た映画とか

Timeline

アルベール・カミュ
反抗的人間

『嵐が丘』のヒースクリフは、カスリンを手に入れるためなら、全人類を殺しただろう。だが、彼はこの殺人が道理にかなっているとか、主義によって正当化されているなどと主張する考えは持たないだろう。殺人を決行すれば、そこで彼の信念はすべて停止する。それには愛の力や性格の強さが必要である。力強い愛はめったにないから、殺人は例外的となり、家宅侵入の様相を呈する。ところが、性格の弱い人間がいそいで理論を身につけ、犯罪が理論づけられる瞬間から、犯罪も理論と同じように発展し、三段論法のすべての格を身につけるのだ。叫び声のように孤立していたものが、科学のように普遍的なものになる。昨日まで裁かれていた者が、今日は法をつくるのだ。

ミラン・クンデラ
存在の耐えられない軽さ

別れぎわに渡された名刺以上に、(本、ベートーベン、6の数字、公園の黄色いベンチという)偶然の呼びかけのサインのほうが、自分の運命を変えるために家を出ようという勇気を与えた。多分それが例のいくつかの偶然(ちなみに、とても控え目な、灰色の、本当にこのパッとしない町にふさわしい)で、それが彼女の恋をつき動かし、人生の終わりまでつきることのないエネルギーの源になったのである。

ミラン・クンデラ
存在の耐えられない軽さ

テレザがトマーシュのところにやってきたとき、脇に抱えていた小説の冒頭の部分で、アンナはブロンスキーと珍しい状況の中で出会う。それはちょうどそのとき誰かが汽車にひかれたプラットホームである。小説の最後ではアンナが汽車に飛び込む。最初と最後に同じモチーフがあらわれるこのシンメトリックな構成は、非常に「小説的」構成のように思われる。そう、私もそう思う。しかし「小説的」ということばを「考え出された」、「人工の」、「実生活とは似ていない」とは解釈しないという条件の下でのみである。なぜなら人間の生活というものはまさにこのように構成されているからである。
それはまさしく作曲のように構成されている。美の感覚に導かれた人間は偶然の出来事(ベートーベンの音楽、駅での死)をモチーフに変え、そのモチーフはもうその人間の人生の曲の中に残るのである。モチーフは人生にもどってき、人生を繰り返させ、変え、発展させるが、それは作曲家が自分のソナタのテーマをそうするようなものである。アンナは自分の人生を違うふうに送ることもできた。しかし、恋の誕生と結びついた駅と死という忘れがたいモチーフは絶望の瞬間に自らの暗い美しさによって彼女を引きつけた。人間は救いようのない絶望のときでさえも、自分の人生が美の諸法則によって構成されるということを知らずにいるのである。
すなわち小説が偶然の秘密に満ちた邂逅(例えば、ブロンスキーとアンナの出会い、プラットホームと死、あるいは、ベートーベンとトマーシュとテレザとコニャックの出会い)によって魅惑的になっているとして非難すべきではなく、人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくことをまさしく非難しなければならないのである。

ロバート・レッドフォード(原作:ノーマン・マクリーン『マクリーンの川』)
リバー・ランズ・スルー・イット

In our family ,there was no clear line between religion and fly fishing.
私たちの家族では、宗教とフライ・フィッシングのあいだに、はっきりした境界線はなかった。

ミラン・クンデラ
不滅

彼は死者に似たいと思っていたのであり、そこにはより大きな智慧が示されている。なぜならば、死と不滅とは離れることのない恋人どうしの組合わせをかたちづくっているので、顔を死者たちの顔と一体に溶けあわせる者は、生前からすでに不滅であることになるから。

ミラン・クンデラ
不滅

私は、ローベルト・ムージル以上に親愛なる小説家を知らない。彼はある朝、バーベルをもちあげているときに死んだ。たまたま私自身がバーベルをもちあげることになったりすると、私は不安な気持で脈拍に注意し、そして死んだりしてはと心配になるのだ。というのは、わが親愛なる作者と同じようにバーベルを手にして死ぬこと、これは私をじつに信ずべからざる、じつに猛烈な、じつに狂熱的な亜流に仕立て、それで笑うべき不滅が私にただちに保証されるということになるだろうからである。

カート・ヴォネガット・ジュニア
スローターハウス5

外科医は英語でビリーにいった、「きみは戦争を非常にこっけいなものと考えているようだな」
ビリーはうわの空で外科医を見た。自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのか、つかのまビリーには思いだせなかった。人びとが彼を道化者と見ているとは、夢にも思わなかった。そんな衣装をビリーに着せたのは、いうまでもなく運命である──運命と、生きのびようとするほのかな意志である。
「きみはわれわれを笑わせたいのかね?」

カート・ヴォネガット・ジュニア
スローターハウス5

死を運命づけられたハイスクール教師、哀れな中年のエドガー・ダービーが、彼の生涯でおそらくもっとも輝かしい瞬間をむかえるため、がたがたと音をたてて立ちあがった。この小説には、性格らしい性格を持つ人物はほとんど現われないし、劇的な対決も皆無に近い。というのは、ここに登場する人びとの大部分が病んでおり、また得体の知れぬ巨大な力に翻弄される無気力な人形にすぎないからである。いずれにせよ戦争とは、人びとから人間としての性格を奪うことなのだ。しかしいまダービーは、ひとりの人間であった。

デリダ 脱構築と正義

「愛とはたぶん、sur-nommer(過剰に名づけること=異名をつけること)にあるのです」

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